プロフィール

はじめまして。

アダルトチルドレン克服専門

カウンセラー アオと申します。


主に40代女性を対象に、全国対応 ZOOMカウンセリングをしています。

✔️自分を犠牲にして我慢してばかり。もう限界にきている。
✔️周囲に対していい人でいるが、本当はしんどく、かなり疲弊している。
✔️自分がどうしたいのかわからない。
✔️アダルトチルドレン・HSPの傾向があるが、どうすれば良いかがわからない
✔️モヤモヤしながら職場と自宅の往復だけの毎日に疲れきっている
✔️転職を繰り返している

このような悩みを抱えていらっしゃる方が、その人らしく豊かな人生を送れるようにサポートしてまいります。

私自身、仕事では転職を8回、恋愛では大きな失敗をし、膨大なエネルギーを使うに至るまで自分を自分で追い込んでしまいました。

そして、これらを機に「このままでは自分がダメになる」と思い、カウンセリングを受け、そして学びました。

自分を立て直すために学んだ知識/スキルや、その過程での出会いが、私のあり方や生き方そのものを大きく変え、人生の選択肢が広がっていきました。

ここでは、私の詳しいプロフィールをお届けします。

長い文章になりますが、読んでいただけましたら幸いです。

「私より他の子が大事なんだ」保育士である母をひきとめたかった幼少期

私は幼い頃から親が共働きだったため、一歳にも満たないうちから、日中は近くに住む叔母の家に預けられていました。

私の母は保育士で、毎朝早くに家を出て、長い通勤時間をかけて仕事に行っていました。

私を産んだ頃すでに管理職だった母は、育児休暇はとらずに、他の保育士さんたちが休めるようにと自分を犠牲にして働く人でした。

仕事に向かう母をひきとめたくて、毎朝泣きじゃくり、叔母に抱っこされながらなだめられていたのを覚えています。

「私より他の子のほうが大事なんだ」

私の幼い胸には、いつもそんな思いがありました。

4歳で引っ越した後は、母の知人であるご夫妻に預けられ、小学校からは学童クラブ利用後、さらに夜遅くまでそのご夫妻宅で過ごしました。

母と遊んだ記憶は、ほとんどありませんが、夜遅く母が私と姉を迎えに来た帰り道の月明かりで、影ふみをしたことだけは鮮明に覚えています。

父は、お酒が好きで、仕事後は毎晩のように深酒をしていました。

「お母さんを苦しめるな!」…涙をこらえながら無言で叫んでいた小学生時代

小学校に入ってからは、ほぼ毎日泥酔する父を見ていました。母は、夜眠れないまま朝早く仕事へ行くという毎日。

私は、泥酔した父の声が聞こえるたびに、布団の中で泣くのを我慢していました。

「お母さんを苦しめるな!」涙をこらえては、無言でそう叫んでいました。

幼い私は、寝ずに仕事に行く母を見て、

「これ以上お母さんに大変な思いをさせてはいけない」

「お母さんの負担になって、仕事の邪魔をしてはいけないんだ」

と思うようになっていったのです。

耐える母の姿は幼い私には「不幸せで、疲れ切ったかわいそうな母」と映っていたのです。

「いい子にしていればお母さんの負担を減らせる。お母さんが楽になる。」

「だから、私はいい子でいないといけないんだ」

小学1年生の頃から、お米を研いでご飯を焚いて母が帰るのを待ったように記憶しています。

ぐったり疲れて帰ってきた母は「ありがとう、嬉しい。」といつも優しく答えてくれました。

私はそのたびに「お母さんを少し楽にしてあげることができた」とほっとしたのを覚えています。

という価値観が大きくなっていきました。

親戚や周りの大人たちも皆、「いい子だね」と言ってくれました。

父は酔うと言い争って急に怒鳴ったり、家族が困り果て疲弊し、苦労することばかりでした。

夜中に父を探しに出る疲れきった母の表情が、今も記憶の中で交錯します。

当時手渡しでもらっていた給料を酔って全額失くして帰ってきたり、警察に何度もお世話になり、私が中学や高校の頃には、翌日に父を警察まで迎えに行ったこともありました。

私は家での出来事は誰にも言わず、表面上はいつも明るく普通にふるまっていました。

言葉にできなかった怒りや悲しみを音楽で吐き出し、心のバランスをとっていた中学高校時代

中学3年の頃からバンド活動に興味を持ち、毎日音楽室のドラムをたたくことが楽しみでした。

先輩への憧れもあって、昼休みにこっそり音楽準備室に入って、流行りのJポップや海外のロックやパンクの演奏にはまっていきました。

オリジナルの楽曲も作り始め、詩や曲を作ることに夢中にもなりました。

「いつもの自分じゃない自分になれる」

「誰も知らない私を表現したい」

という気持ちがあったように思います。

そして、「音楽をしている時は自分でいられる」という解放感がありました。

大学時代、つきまとう“体の真ん中が透明な感覚”

はっきりとは覚えてませんが大学に進学した頃から、自分の体の真ん中、胸とお腹のあたりがはっきりしない感覚がありました。

友人やたくさんの仲間と一緒に居ても、自分がその場に一緒に居ない感覚があったのです。

音楽をやっている時は、自分がはっきり存在している感覚を持てたので、私はさらに音楽活動にはまっていきました。

大学に入ってからも「優しいね」「怒らないね」と言われることが増えていきました。そう言われることが、本当はとても嫌でした。

「本当に優しいのとは違う…」

「私はいい人なんかじゃない」

そんな自分の本音に気づきながらもスルーして、ニコニコと振る舞い“いい人”をやり続けていました。

気持ちと行動が違っていることをどこか冷たく捉え、そのことを見ないようにしていたと思います。

「何をしたいの?」聞かれる度に答えられない自分が嫌になった20代前半

大学を2年になると、周りの友人は就職を見据えて履修を決めていました。

私は、母と同じ保育士になるために大学に進学したのですが、バンドでのライブ活動に夢中になり、必要な履修を全て欠席するようになっていました。

自分がどうしていきたいのか、はっきり決められず、なんとなく手探りの毎日。

周りからは「何をやりたいの?」「仕事はどうするの?」と聞かれることがしばしばありましたが、私はそれを聞かれることがとても嫌でした。

どう答えていいのかわからなかったのだと思います。

「わからないことに気づけてもいない」と言ったほうが正しいかもしれません。

私は自分の気持ちに、かなり鈍感になっていたのです。

わからないから放置することになってしまう。

堂々巡りを繰り返して、さらに負のループにはまっていったのです。

「私にはこんな気概はない…」周りと比べ曖昧な自分に悲嘆した就活期

当初の目的だった保育士の資格もとらないまま大学の卒業時期を迎えます。

自分がどうしたいのかよくわからないままの就活はうまくいくはずもなく、アルバイトをしながら音楽会社の採用面接を受けましたが、他の応募者の熱意や気概に圧倒され、「私には、こんなに音楽をやりたいという強い思いはない…」と、自分の気持ちの曖昧さに落ち込みました。

曖昧なままの自分をダメだと責めるようにもなっていきました。

周りからの心配の声も聞かず頑張り続け、蓄積された疲弊と枯渇。8回の転職を繰り返した20代後半~30代

アルバイトをしながらの就活後、正職員として介護の仕事を始めました。

日勤や夜勤のある仕事だったため、とてもハードな毎日でしたが、お年寄りと接することは好きでした。

その後介護・福祉・相談職として20年働きましたが、その間に8回の転職をしています。

どの職場も2~3年で辞めてしまうということを繰り返していました。

この頃の私は、同僚が急に休んだ夜勤の穴を日勤の後にも関わらず率先してひきうけてしまったり、夜勤後夕方まで残業することもありました。月に170時間の残業をしていた時期もありました。

周りからは「もう少し肩の力抜いてもいいんじゃない?」「今日も大変だったんじゃない?」と声をかけられたこともありましたが、私がやらないといけない、皆に負担にならないようにと「大丈夫だよ」と返答していました。

「私は平気、大丈夫」と、周りからの心配やフォロを受け取らなかったのです。

自分自身に鈍感になっているため、自分がどんな状況か気づかずに、無理や負担になる行動を繰り返しました。

体と心の疲弊、枯渇はさらに蓄積されていきました。

30代に入ると、夜勤中に急に涙が出て来たりすることもありました。何か出来事があったから泣いているのではなく、ただただ涙が出てくるのです。

3年が経つ頃に、なんとなく続けられなくなり「もう辞めたい」と退職を選択することを繰り返していました。

「どうして涙がこんなに出てくるんだろう…」自分の気持ちがわからない日々

次第に、胸の中でモヤモヤした感覚が生まれ、次第に存在を増すようになっていました。

薄々、このままだとまずいなと思いながらも、日々なんとなくやり過ごしていました。

「今日は、〇〇をしなければいけない」

「明日の△△に間に合うように、段取りをしておかなくちゃ」

と、就寝しても枕元にメモを置いて、頭に浮かんだ仕事を書き出し、やっと夜中に寝付くということが多くなっていました。

この頃から、泣きながら電車に乗って帰宅することがしばしばありました。

「どうして涙がこんなに出てくるんだろう」

「さっきまで、普通に仕事してたのに…」

と、困惑しながらも「いつものことだから大丈夫」と自分で自分に言い聞かせやり過ごす時期が続きました。

もう限界まで来ている自分を放置し続けてしまったのです。

相手に負担をかけまいと「大丈夫だよ」と平静を装い続けた恋愛

恋愛でも、自分の気持ちを相手にうまく伝えることができませんでした。

「会いたいよ」

「今度、〇〇に行こうよ」

仕事で忙しくする彼に負担をかけまいと、本当はしてほしいこと、言いたいことがあるのに、

「大丈夫だよ」

といつも平静を装っていたのです。

相手に本当の気持ちが伝わえられず、我慢して我慢して…そして些細なことがきっかけで、感情だけ吐露してしまうことが多くなっていきました。

そして、人生の転機がやってきます。

「私はまた置いていかれたんだ」恋愛で重なった幼少期からの自己価値感の低さ

彼が仕事で沖縄へ拠点を移すために、長期間を予定し沖縄へ飛んだのです。

ショックを受けたにも関わらず、私は彼に対して平静を装い続けました。

「そうなんだ、わかった。がんばってね」と。

しかし、本当は「私のことなんでどうでもいいんだ」「またこの人も私を置いていくんだ」という怒りや悲しみがあったのです。

「また私、置いていかれるんだ」

「私なんて置いていっていい存在なんだ」

これは幼い頃の私が仕事へ行く母に対して「私を置いていかないで」と感じていた気持ちと重なっていたのです。

でも、自分に鈍感になり過ぎていた当時の私には、これらの気持ちに気づくことはできませんでした。

仕事を頑張っている相手のことを心から応援できず、不安と不満が蓄積していきます。

本当の気持ちがわからないまま、彼の行動を責めるようになり、とうとう自分から別れることを選択してしまいました。

私を突き動かした“本当の気持ち”

すぐに、彼と別れたことを深く後悔しました。

「もう遅いかもしれないけど、今動かないとさらに後悔する…」と、抑えきれない衝動のようなものを感じ、

それまでの自分なら絶対にしなかったであろうありえない行動に出ます。

仕事を辞めて、知り合いも誰もいない沖縄へ引っ越したのです。

沖縄へ向かう日。

見送る母を背に、羽田空港の出発ロビーを歩いた感覚をはっきりと覚えています。

お腹の底から突き上げるような怖さと不安が胸の中いっぱいになっていくのを感じました。

「この選択をしないと、自分はまたずっと同じ繰り返しをして何も変わらない」

決断した自分を鼓舞するようなそんな感覚がありました。

私は、こんな膨大なエネルギーを必要とする選択をしなければならないぐらいにまで、自分で自分を追いこんでしまっていたのです。

「お母さん、心配かけてごめんね」ダメな私を母にさらけ出した沖縄での数か月

彼とはうまくいくはずもなく、沖縄でひとり途方に暮れる日々が続きました。

そして、追い打ちをかけるような出来事が起こりました。それは本当に悔しく、とてもつらい経験でした。

雷に打たれたような感覚が背中を走りました。

この時の、感覚は一生忘れられません。

私の中に溜まっていた怒りの感情が、外に出てきたのです。

彼に対する怒りや悲しみ、自分を責める気持ち…。

その後、精神的に不安定な日々が続きました。

当時、母が心配して沖縄へ来てくれて、不安定な私を支えてくれました。

まるで、母と幼い頃からやり直しをしているようなそんな感覚にもなりました。

母に大きな心配をかけ、迷惑をかけ、負担をかけ、全ての感情を吐露し、どうしようもない私をさらけ出した時間でした。

「お母さん、心配かけて本当にごめんね」

感じることを避けて来た「怒り」の感情

この転機と同じ頃、私はパステルアートという絵に出会いました。

絵を習う過程で、喜び、悲しみ、怒りなど感情を描く機会があったのですが、描けない感情がありました。

それは「怒り」の感情でした。

「怒りって、どんな感じなんだろう?」と、とまどいが大きかったのを覚えています。

他の感情はわかるのに、怒りだけわからないのです。

怒り。それは、私が長年感じずに放置したままの感情だったのです。

どうしようもなく途方に暮れた私が出会った一冊の本

沖縄で私を救ってくれたのは、ある一冊の本でした。

精神的につらかったため、この本にどうたどり着いたのか記憶が定かではありません。

その著者は、私が後に師事する心理療法家の先生でした。

その本の存在を知り、藁をもすがる思いで那覇のジュンク堂書店に走りました。

「一冊だけある!」

私は沖縄に来て初めて救われた気がしました。

その本に書かれたワークを毎日毎日、真剣にやりました。

自分の感情と向き合うことは、本当にしんどく、胸が軋んで壊れそうでした。

怒りや悲しみ憎しみの感情が時々大きな波のように押し寄せて来ることもしばしばありました。

沖縄での生活は、知人の知り合いとつながることができたり、不思議な出会いがあり、右往左往しながらもなんとか毎日を過ごしていました。

しかし、そんな生活を長く続けられるはずもなく沖縄での生活を終わりにすることを決めます。

精神的な余裕も、経済的な余裕も全て失くなっていたのです。

「このままでは私ダメになる」学び始めた心の原理原則

「このままでは、私本当にダメになる…」

途方に暮れ、深い挫折とともに東京へ戻りました。そして、心理について学び始めたのです。

沖縄で出会った本の著者である先生監修の講座に通いました。

学んだワークを日常生活に取り入れて、日々実践していきました。

さらにいろんな感情が溢れ出して、自分でもコントロールが効かなくなることもありました。

自分でも驚くほどの、深い怒りや悲しみの感情でした。

毎日お酒を飲んで、母を苦しめたどうしようもなく情けない父への怒り。

「私を置いていかないで」母への思い。

仕事や恋愛で我慢し続けた言えなかった本当の気持ち。

私は、自分の気持ちにひどく鈍感になっていたんだ!と深く気づき、「自分の感情を感じる」ということがどんなに重要なことかを体験をもって知ることができたのです。

「私が私を置いてきぼりにしていたんだ…」日常的に続けた心理ワークが導いてくれた深く大きな気づき

その後も時間をかけて、師事する先生の講座やグループカウンセリングを受け、日常生活にそのワークを取り入れていきました。

そして、ある日、

「私が私を置いてきぼりにしていたんだ!」

私が私自身のことを置いてきぼりにしていたことに気づいたのです。

いろんなことが数珠のようにつながり、

「そういうことだったのか!」

と自分でも驚くほど深く納得し、腑に落ちた感覚を得たことを昨日のことのように覚えています。

これまでの失敗が、自分が幼いころに培ってしまった不必要な思い込みだったり、彼へ求めたことが実は母へ求めていたことだということも整理がつきました(この過程は、人それぞれです)。

我慢を繰り返し、自分の本当の気持ちを抑えていたことに気づいた私は、自分の気持ちをまずわかってあげるということに意識を向けるようになりました

「私はこうしたい」

「私はこれがいい」

「私は今こう感じた」

小さなことからひとつずつ、枯渇した自分に水をあげるように自分と対話し行動していったのです。

自分が透明でそこに居ない感覚は、いつしか自然と消えていました。

そして、毎日が心軽く楽に、そして穏やかになっていたのです。

「人に頼っていいんだ…」本当の意味での自立を知った40代

心の原理原則を学ぶ過程で、人に頼ること、本音を伝えることを練習していきました。

「人に迷惑をかけてはいけないと過剰に思い込んでいたんだ」

「人に頼っても、ちゃんと受け止めてくれて応えてくれる」

「それを喜んでくれる人もいるんだ」

自分がどのような価値観にどう偏っていたのかも客観的に見ることができるようになり、適度に人に頼れるようになったのです。

人に頼ることで、支えてくれる他者があらわれ、人と人との支え合いが循環し広がり、お互いが支え合いながらひとり立ちできるようになる。そして、心の自立が生まれるのだと深く実感しました。

そして、自分の伝えたいことも、我慢しすぎず適度に相手に伝えることができるようになりました。

相手に自分の意見を伝えると、一旦は気まずくなったりもするけど、その後ほとんどの場合信頼関係が深まるということも身をもって経験していったのです。

不要な価値観から解放され、人生の選択肢が広がっていた

もっと心について勉強をして、今度は私が誰かのために心について伝えられる人になりたいと感じ始めました。

さらに本格的に心理やカウンセリング、コーチングについて学んでいきます。

人生の転機から1年半経った頃、私はあることを始めていました。

それは、個人事業主としての開業でした。絵の教室とカウンセリングルームを開設したのです。

気づけば、自分がやりたいことを自然と行動に移して、実現するにまでできるようになっていたのです。

それまでは、「正社員で働かないといけない」、「ひとつの仕事をやり遂げることが良いこと」という母の価値観が根っこにありました。

しかし、この頃の私はすでに、自分のやりたい仕事を好きなように選択し組み合わせて働くようになっていたのです。

仕事の仕方、あり方は人それぞれにあっていい。そんな価値観に変化していたのです。

心についての知識をもっと早くに知っていれば、遠回りをしなくてもすんだかもしれない

私は、たくさんのエネルギーを使い、周りに多大な迷惑や心配をかけてやっとこのような気づきや経験にたどり着けました。

たくさんの時間とお金を使いましたが、私はこれまでの選択を後悔していません。

しかし、もっと早くカウンセリングで学んだ知識を知っていたら、信頼できる人に相談するということをしていれば、膨大なお金と時間をかけることはなかったとも思うのです。

もうこれ以上頑張らなくていい

きっと、ここまで読んでくださったあなたは、毎日笑顔で、周りの人たちのために頑張ってこられたのではないかと思います。

「モヤモヤを日増しに強く感じているけど、どうしていいかわからない。」

「このまま、ずっとこれが続いていくのかな…。」

と思いながらも、

「私の悩みなんて、あの人の悩みと比べたら全然大したことない。」

「きっと大丈夫だから、このままいつものように毎日仕事を頑張っていけばいい。」

そんな葛藤を感じているのではないでしょうか。

もし、その葛藤に気づいているのであれば、もうこれ以上その感覚を無視はしないであげてほしいのです。

まずは、ここまで頑張ってきたご自身を労ってあげてください。

「よくここまで頑張ってきたね」と。

そして、自分の気持ちをほんの少しでも言葉にしてみてください。

ひとりではこれ以上限界だとお感じであるのなら、少しの勇気をもって他の誰か(信頼できる方やプロのカウンセラー)に頼ってみてください。

勇気のいる一歩を踏み出そうとしているあなたへ

これまでとは違う選択をすること、勇気をもってそれを選ぶことは、とても怖いし、なかなかその一歩を踏めない気持ちもあると思います。

私もそうでした。

今まで味わったことのない怖さ。

自分と向き合おうとする覚悟が、そう感じさせているのだと思います。

今まであなたは自分よりも周囲へ、あなたの思いやりや気遣いを向けてこられました。

でも、これからは、今まで周囲へ向けていた思いやりや気遣いをあなた自身に向けてみてほしいのです。

あなたのつらさを誰かのつらさと比べる必要もありません。

あなたがつらい苦しいのなら、あなたがそれを堂々と感じ表現していいのです。

一人でしんどいなら、是非一度、お試しカウンセリングをご利用されてみてください。

そして、カウンセラーアオとの相性をお確かめください。

✔️周りに負担にならないようにと、自分を犠牲にして我慢してばかり。もう限界にきている。
✔️自分が何をしたいのかわからない…
✔️モヤモヤしながら職場と自宅の往復だけの毎日に疲れきっている
✔️転職を繰り返している
✔️アダルトチルドレン・HSPの傾向があるが、どうすれば良いかがわからない

あなたの人生の選択肢がより一層広がるお手伝いになれば、私にとって最高の喜びです。

今踏み出そうとしている一歩のその先で、あなたをお待ちしています。

長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。